タイトル
「天然は天然であって、あくまでも天然である」
ウダム世の中では「天然女」がなにかともてはやされている。
無垢で可愛らしいというイメージが定着しているからであろう。
そして、男達はそんな女に弱い。
しかし男達よ、本物の天然女に会った事があるかと私は聞きたい。
そして、そんな女に翻弄されてみたいと本気で思っているのかと私は聞きたいのだ。
あれは数年前…もう何年という、はっきりとした数字さえ思い浮かばないぐらいの数年前という事だが―――。
ある日、私は近所の商店街のくじ引きでハワイ旅行を当てた。
しかし当時の私は会社に勤めたばかりで、毎日仕事をおぼえるだけで精いっぱいだった。勿論、彼女と呼べる女も居なかった。
だから、ペアで5日間のハワイ旅行は、正直、有り難くもなかった。
そんな訳でそのチケットを友人に売ることにしたのだ。
友人は一緒に行こうと誘ってくれたが、男二人でハワイ旅行に行く気にはなれなかった。その友人とは、それきり会っていない。
つまり、決別したのだ。
無邪気に男同士でハワイに行こう、などと言ってきたのが気に食わなかったのかもしれない。いや、そうではなくて…彼の無邪気さに腹が立ったのかもしれない。
私はそういう人間だ。
さほどの苦労もなく、ただ無邪気に笑っている人間が嫌いだった。
奴らはつまり…半端者なのだ。
適度な苦労と適度な幸せを知っている半端者。笑うという余裕をまだ持ち合わせている程度の人間とは肌が合わない。それだけの事だ。
しかしながら、友人の嬉しそうな顔は今でも憶えている。彼の屈託のない笑顔…嫌いだったが、憶えている。
数週間後、その友人にチケットを売った金で、私は小旅行を計画した。
行先は日光。
8月も終わり、ようやく9月に入ったばかりである。旅にはもってこいの季節でもあった。
有給を使わず、土日にかけての一泊旅行。
些細な旅行だったが、私にとっては初めての旅行でもあった。
子供の頃から貧しく、下町で小さな工場を営んでいた両親の苦労を知っていたので、贅沢はいっさい言わなかった。自分の誕生日でさえ、祝ってもらったことがないほど貧しかったのだ。ましてや旅行なんてものは自分の生活には無いものだと思っていた。だからその旅行は思いのほか、楽しみにしていた。地図や下着、安物ではあるがカメラも…そんなものを用意するのがとても楽しいことだと初めて知った。
安物のタンスに取り付けられた姿見に、浮ついた顔の自分が映っていたのを憶えている。食べる物はできるだけ質素に、着るものは清潔さを第一に考えて、たとえそれが安物であっても構わなかった。大事なのは金。それだけだった。そしてそれが現実であることの証であると思っていた。そういう生活をしてきたせいか、膨らむ一方の貯金通帳とはうってかわって、持ち主である自分の姿は痩せこけて顔色も悪かった。
けれど…この冴えない顔も、たまにはいい顔に見える時もあるものだ。
見ようによっては細面の顔でもあるし、窪んだ目も彫りの深い造りにも見える。栄養状態が悪かった子供時代を経てきてもなお、背丈は伸び続けてくれたのだ。
なんとも晴れやかな気分だった。
旅をする。
それだけのことだったが、私の人生において、これほど心躍ることは無かった。
私は荷物をチェックするためにもう一度、鞄の中身を確かめた。
そうして旅の支度をしながら、ふと、両親のことを考えてみた。
当たったチケットを彼らにあげれば良かったとも思う。
けれど、貧乏生活から抜け出したい一心で、家業を継がず家を飛び出してきたのだ。まだ彼らに堂々と胸をはって会えるほど出世もしていないし、あの場所に帰ったら最後、泥沼に足を取られてしまうようで怖かった。彼らの人生と自分の人生を切り離して出てきたのだ。もう戻れまい、そう思ったからこそ、どうでもいい友人にチケットを売ったのだ。
そして忘れもしない旅行の前日。
その日はしっかりと残業をし、上司の機嫌を損なわなぬよう、飲み屋では盛り上げ役に徹した。準備は万端。別に会社に迷惑をかけているわけではないが、正々堂々と旅行を楽しみたかったのだ。
しかしそう思った矢先、厄介なことに巻き込まれた。
―――女だ。
しかも世に言う「天然女」。
上司と行った飲み屋で働いている女で、源氏名はキャサリンというふざけた名の女だ。しかし、ポッチャリとして女らしい体つきをしているわりには東洋人とはかけはなれた、どこか異国風の匂いのする女だった。
いや…正直に言おう。そんな品の良い言い方では彼女を語りつくせまい。
俗に言う、ダイナマイトボディというやつだ。身体だけは確かに極上だった。
そう、身体だけは…。
だから彼女は上司のお気に入りだった。
その上司だが、助兵衛根性が逸りすぎたのか、注がれる酒を断ることができずに飲み続け、ついにはつぶれてしまっていた。
そしてそれはいつものパターンだった。
ここで会計を済ませて上司のためにタクシーを呼び、その日は終わるはずだった。
しかし―――。
「ちょっと待って、一色さん。この子も連れて帰ってちょうだい」
店のママにそう言われて、私はキャサリンを連れて帰ることになったのだ。
見ると彼女はすでに下着のようなワンピースの上に薄っぺらいコートを羽織っていた。手には服と同じ赤いバックを持っていて、帰り支度は万全のようだった。
「なんだかなぁ…」私は呟いた。
まだ店内には客がいるというのに、女の子を帰してもいいのだろうか。
するとその疑問に答えるかのようにして、ママが頷いた。
「いいのよ、いいから……ね?」
お願い―――そう言われてしまえば断れなかった。
別に下心があったわけではない。
帰りのタクシー代は払うから、とママに言われたからだ。酔っ払いの多い最終電車に乗って、さらに駅に置いてある自転車で自宅まで帰ることを思えば、ママの申し出はかえって有り難くもあった。
客の男達の羨望のまなざしを背に受けながら、私は酔いつぶれた上司と、まるきりシラフな彼女を連れて店を出た。
あの時―――。
あの時、彼女を連れて店を出なかったら…。
そう思うが、たかが女ひとりで自分の人生が変わるなど思ってもみなかったのだ。
若さゆえの愚かさか…。
そう言ってしまえば楽になれるだろうか。
いつもながら、酔った上司を送り届けるのは辛抱が要る。けれど、ひきつりながらも笑顔を向けて門扉の前で待っていてくれる彼の奥さんの顔を見れば、そんな苦労もふっ飛ぶというものだ。その日も無事に上司を送り届け、私はホッとしていた。
しばらくして、運転手が「お次はどこへ?」と訊いてきた。
私は、隣に座っているキャサリンに住まいを訊いた。
すると彼女はきょとんとした顔で「お店の近くだよ〜」と言った。
「なんだって?」
私はあからさまに眉間にしわを寄せた。
けれど、なんで最初に言わなかったんだ、という言葉は呑み込んだ。出発前に行先を訊かなかった私が悪いのだ。だからイラつく気持ちをどうにかおさえることができた。
「仕方ない、逆戻りしよう…場所は?」
「お店の隣〜」
「くそっ!」
タクシー代としてママに貰ったのは一万円。上司を送り届けた時点で残っているのは四千円弱。また戻って彼女を送り届けたら約二千円の足が出てしまう。おまけにもう終電も無くなっているから、自分の家に帰るには自腹を切ってタクシー代を払わなければならないのだ。
私は彼女に聞こえるように舌打ちをしてやった。
明日は旅行だというのに、厄介な荷物を請け負ってしまったものだ。
「ねぇ〜ぇ、一色さん〜」
彼女が指で撫でるようにして私の腕をつついてきたが、私は無視した。
考えている時にちょっかいを出されるのが一番嫌いなのだ。そういう事を平気でしてくる人間は揃って頭が悪い。
それに、間が悪い人間は何においても下手をする。
そして相手に必ず不快感を与える。そういうものだ。
案の定、彼女は私の神経を逆撫でした。
「ごめんね〜、怒ってるぅ〜?」
間の抜けた甲高い声でそう言った彼女は、心配そうに私の顔をのぞきこんできたのだ。
「…まったく」
吐き捨てるように言った私を、それでも彼女はわけが解からないといった顔で見ていた。
色白だが目も鼻も口も小さい彼女の顔は、一度会っただけでは憶えられそうにもないほど地味に見えた。色素が薄いせいもあって、髪は赤く、所々には金髪のような毛も混じっている。短く切りそろえられているが、くせ毛なのか、その髪は四方八方を向いていて、まるで洒落た感じがしない。
よくもまあ、この顔で水商売ができたものだと感心すらしてしまったものだ。
顔だけ見ていると、飲み屋の女というより、しょんべん臭いガキのような雰囲気を持った女だった。
よりによってこんな女のために自腹を切るのか?
益々、腹が立ってきた。
彼女を送り届けて、その足で自宅に帰ったとしても約五千円の自腹は覚悟しなくてはならない。
理不尽だ。
全くもって理不尽だ。
そんな思いが彼女に通じたのか、キャサリンはおもむろに妙なことを言いだした。
「あたし〜、ここで降りてもいいよぉ…」
「………は?」
思わず目を向けると、彼女の髪の先が顔に触れるほど近づいていた。私は片手で彼女の顔を押しやった。
「なに言ってるんだ…歩いて帰れるとでも思ってんのか?」
あまりのアホさに怒りも半減してしまい、私の声は弱々しく聞こえた。けれど彼女は、笑みを浮かべたままだった。笑顔まで地味な女だったのを今でも憶えている。
「うん!帰れるよ。歩いてれば必ず着くし〜」
馬鹿じゃないのか…そう言おうとした時、タクシーの運転手のイラついた声に遮られた。
「メーター上がっちゃうよ、お客さん」
確かに。
親しい間柄でもない女のために金が無駄になっていく。ミラー越しに見ると、運転手は意味ありげな視線を私によこしてきた。
不本意ではあるが、まどろっこしいやりとりをしている一組の男女程度に思われているのだろう。言い訳してやりたい気持ちもあったが、言い訳するにもメーターはどんどん上がっていく。金の無駄、時間の無駄をあれほど実感したのは初めてだった。
私は迷わず彼女に告げた。
「俺の家に来てもらう」
そうすることで財布が痛まなくて済むのだ。
まるきり世間を知っていなさそうな若い女ではあったが、不思議と罪悪感は持たなかった。
どうせ飲み屋の女だ。
客としけこむのは日常茶飯事だろう。
すでに上司も手をつけているに違いない。
いや、上司だけではない。おそらく何人もの男がこの女の世話になっているはずだ。
運転手の手前、彼女のために世間体を気にしてやるのが男として当たり前のことなのだろうけれど、この女に限ってはそんなものは必要ないと思った。
実際、彼女は私の言葉に対して無防備にもあくびをしながら「うん、いいよぉ〜」と言ったのだ。
それは予測していた答えだった。
しかし同時に、ある種の違和感も抱いた。
そう言えば―――店のママが愚痴をこぼしていたのを憶えている。
「あの子、使えないのよねぇ…辞めてもらっても構わないんだけど」
なかなか辞めてもらえなくて―――そう言っていたのだ。
なるほど。
そういうことか…。
適当な男を見つけて、さっさとねんごろになってもらえれば都合がいい。そういうことだったのか。
しかし誰でもいいわけではない。
私のように社会人に成りたての、真面目な男なら簡単におちると思っていたのだろう。
そうはいかないぞ。
いくら若くても、人より苦労を重ねてきたのだ。
それぐらいの罠にはまってたまるか。
こんな女、朝になったらとっとと追い出してやる。
そして自分は晴れ晴れとした気分で旅行に行く。
そうするつもりでいた。
下心など微塵もなかった…はずだ。
それなのに。
「ねぇ〜ぇ、一色さぁん」
彼女が鼻から甘い声を出すようにしてすり寄ってきた。
豊かな胸のふくらみが、腕に心地よい感触を残したのを今でも鮮明に覚えている。
そして組んだ足をほどいた時、赤いワンピースの裾が少しめくれたのだ。
ほんのり淡いピンク色をした太ももには赤い小さな点がポツリとあった。
蚊に刺されたのだろうか、少し盛り上がっていた。
それがなんともだらしなくて、そしてエロティックに見えてしまった。
私はかすれた声で運転手に行先を告げた。
ミラー越しに運転手と目が合い、彼は合点がいったように頷いてから、車を発進させた。
自宅に帰るよりいい場所がある。
けれど、そうするには少々金がかかりそうだ。
もう一度、女をちらりと見てみた。
同時に頭が痺れたような感覚に陥る。
私は生まれて初めて金のことを考えるのを止めた。
しばらくして、彼女が再び甘い声で話しかけてきた。
「ねぇったら、ねぇ〜ぇ」
幼さの残る彼女の顔を見ないよう、前を向いたまま、私は返事をした。
「なんだよ…」
「お願いがあるのぉ〜」
そら来た。商売女の得意技だ。その一言で目が覚めたような気分になった。
私は身構えた。
どこかの馬鹿な男みたいに「何でも言ってごらん」などとは言わない。
かわりに「図々しいのは迷惑だ」と言ってやった。今度はしっかりと彼女の顔を見た。
しかし彼女は顔色を変えるでもなく、ただもじもじとしている様子だった。
発育しすぎた身体を抱えるようにして両手を膝の上に乗せている。
ちらりと上目使いに見上げたその顔は、やはり幼すぎて見えた。
その罪深い存在を滅茶苦茶にしてみたいと思った。
私は言った。
「何でもいいから…言ってごらんよ」
すると彼女は頬をほんのり朱に染めて「コンビニに寄って欲しいんだけど〜」と言った。
「…え」
なんとも安上がりな女だ。腹がすいていたのだろう…それにしてもコンビニとは随分と質素で有り難いと私は思った。
「ああ、そういうことか。なら、何でも買ってやるよ」
「うん、ありがと」
彼女は無邪気に笑った。しかしなぜか、その無邪気さに腹は立たなかった。
「…いいよ、別に」
「そ…じゃあ買ってもらっちゃおっかなぁ…」
どうせ高くても1000円もしない弁当を買わされるのだろう。これから起きることを考えれば安上がりだ。私は愚かにもそう思っていたのだ。
だから声が上擦らないように注意しながら、さりげなく応えた。
「うん…いいよ」
そして応えた後、自分の愚かさに打ちのめされそうになったのを憶えている。
彼女は言ったのだ。
「タンポン買いたいのぉ〜」…と。
運転手が小さく咳き込んだ。
私は行先を変えてもらうべく、肩を震わせている彼にそう伝えた。
自宅への道のりがやけに長く感じた。
つづく
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